watashi ha kirei dakara shinanaiyo HAHAHA
2004年12月29日 日常スマトラ沖の地震による大津波で
インド洋沿岸地域が壊滅的な打撃を受け
数を聞くと失神してしまいそうになる位
多くの人々が亡くなられた。
その世界的パニックのさなか
俺も例外に漏れず
人知れずパニックに陥っていた。
タイの友達と連絡が付かないのだ。
そいつと知り合ったのは2年前。
ひょんなことから知り合った
テキサス出身の留学生の家で鍋会をしたときのことだ。
酒飲むよりも食う方に意識を集中させていた俺の横に
おもむろにドスンと腰をおろし
「アナタ ワタシノコノミダカラ ニホンゴオシエテ!」
ってオイ、それ脈絡ねぇよ
好みってのと日本語教えてもらえるのといきなり直結させんなよ
そもそもアンタ俺の好みじゃねぇよ
みたいな感じで言葉をかけてきたのが sunipa だった。
彼女は俺と同い年の、いかにも南国風の気さくさを絶やさない
肝っ玉母ちゃんのような女の子だった。
同志社大学に日本語を勉強しに来ているらしかった。
冗談だか本気だかわからないがよく
「ケッコンシテ アタシノメンドウミテ!アタシノカゾクモ!」
などと俺をみて笑いながら口走ってやがった。
うっせぇよケッコンなんか死んでもしねぇよ!
などと怒鳴り散らしながらも
よくつるんでメシ食いに行ったり
タイ料理教えてもらったり
飲みに行ったり
もちろん互いの国の言葉を教え合ったりしたもんだった。
いざ日本での学業を終えて彼女が自国に帰るとなったときは
送別会の折に感極まって彼女を抱き締め
オイオイと泣いたものだった。
その後もよく
お互いの境遇やら何やかやを
メールでやりとりし合っていた。
彼女は今バンコクで教師をしているらしい。
あちらで教師といえば
有数のエリート組だ。
最後にメールが来たのは2週間前。
年末には友達と南部の島めぐりしてくるかも
みたいなことがそこには書かれていた。
そんとき俺は
プーケットやピピなどのビーチで寝そべっている sunipa の姿を
思い描きながら一人自室の寒さに凍えていた。
27日、仕事から疲れて帰ってきた俺の目は
テレビから流れてくる一連の報道に釘付けになった。
もんすげーことになってるじゃんよ、インドネシアの方…。
被災した人々の哀れな姿がテレビに映し出されるたびに
南部に旅行に行くと言っていた sunipa の顔が思い出された。
まさか、被災してはいまいか…?
矢も盾もたまらなくなり俺は彼女にメールを送った。
「南部に遊びに行くって言ってたけど、お前も友達も無事でいるか?!!」
みたいな内容を英語でしたためて送信。
携帯メールのようにリアルタイムでやりとりできればいいのだが
PCメールでのやりとりなのでそれもかなわず
もしかすると二度と来ないやも知れぬ返事を待つ間
俺は気が気でない状態で過ごした。
一夜明け、28日。
現地では被災者の数はうなぎ上りで
それに比例して死者数も次々カウントされていった。
メールの返事はまだ来なかった。
いつも一日と置かず
始終メールチェックしてるのかよ?!
と思わせるかのようなメールまめな返事っぷりを誇る彼女だったので
その間が不吉な考えを俺の脳裏に否が応でも呼び起こした。
そんな夜も明け、29日。
インド洋沿岸各国に多大な被害が及び
日本人旅行客の死者も多数確認されていた。
そんな中
待ち望んでいたメールが届いた。
そこにはこんな風に書かれていた。
「Hi ookami!!! watashi ha sugoku genki yo!!
watashi ha kirei dakara zettai shinanai yo HAHAHA!!!!
shima niha kekkyoku ikanakatta yo」
何でローマ字??!
ていうか「キレイだから死なない」だと?!
うるせーーーーーー、悪いのはその口か!!!!!!
そこ座れコラ!!!!!!
心配かけやがって…。
ホント、生きててよかったよ…。
インド洋沿岸地域が壊滅的な打撃を受け
数を聞くと失神してしまいそうになる位
多くの人々が亡くなられた。
その世界的パニックのさなか
俺も例外に漏れず
人知れずパニックに陥っていた。
タイの友達と連絡が付かないのだ。
そいつと知り合ったのは2年前。
ひょんなことから知り合った
テキサス出身の留学生の家で鍋会をしたときのことだ。
酒飲むよりも食う方に意識を集中させていた俺の横に
おもむろにドスンと腰をおろし
「アナタ ワタシノコノミダカラ ニホンゴオシエテ!」
ってオイ、それ脈絡ねぇよ
好みってのと日本語教えてもらえるのといきなり直結させんなよ
そもそもアンタ俺の好みじゃねぇよ
みたいな感じで言葉をかけてきたのが sunipa だった。
彼女は俺と同い年の、いかにも南国風の気さくさを絶やさない
肝っ玉母ちゃんのような女の子だった。
同志社大学に日本語を勉強しに来ているらしかった。
冗談だか本気だかわからないがよく
「ケッコンシテ アタシノメンドウミテ!アタシノカゾクモ!」
などと俺をみて笑いながら口走ってやがった。
うっせぇよケッコンなんか死んでもしねぇよ!
などと怒鳴り散らしながらも
よくつるんでメシ食いに行ったり
タイ料理教えてもらったり
飲みに行ったり
もちろん互いの国の言葉を教え合ったりしたもんだった。
いざ日本での学業を終えて彼女が自国に帰るとなったときは
送別会の折に感極まって彼女を抱き締め
オイオイと泣いたものだった。
その後もよく
お互いの境遇やら何やかやを
メールでやりとりし合っていた。
彼女は今バンコクで教師をしているらしい。
あちらで教師といえば
有数のエリート組だ。
最後にメールが来たのは2週間前。
年末には友達と南部の島めぐりしてくるかも
みたいなことがそこには書かれていた。
そんとき俺は
プーケットやピピなどのビーチで寝そべっている sunipa の姿を
思い描きながら一人自室の寒さに凍えていた。
27日、仕事から疲れて帰ってきた俺の目は
テレビから流れてくる一連の報道に釘付けになった。
もんすげーことになってるじゃんよ、インドネシアの方…。
被災した人々の哀れな姿がテレビに映し出されるたびに
南部に旅行に行くと言っていた sunipa の顔が思い出された。
まさか、被災してはいまいか…?
矢も盾もたまらなくなり俺は彼女にメールを送った。
「南部に遊びに行くって言ってたけど、お前も友達も無事でいるか?!!」
みたいな内容を英語でしたためて送信。
携帯メールのようにリアルタイムでやりとりできればいいのだが
PCメールでのやりとりなのでそれもかなわず
もしかすると二度と来ないやも知れぬ返事を待つ間
俺は気が気でない状態で過ごした。
一夜明け、28日。
現地では被災者の数はうなぎ上りで
それに比例して死者数も次々カウントされていった。
メールの返事はまだ来なかった。
いつも一日と置かず
始終メールチェックしてるのかよ?!
と思わせるかのようなメールまめな返事っぷりを誇る彼女だったので
その間が不吉な考えを俺の脳裏に否が応でも呼び起こした。
そんな夜も明け、29日。
インド洋沿岸各国に多大な被害が及び
日本人旅行客の死者も多数確認されていた。
そんな中
待ち望んでいたメールが届いた。
そこにはこんな風に書かれていた。
「Hi ookami!!! watashi ha sugoku genki yo!!
watashi ha kirei dakara zettai shinanai yo HAHAHA!!!!
shima niha kekkyoku ikanakatta yo」
何でローマ字??!
ていうか「キレイだから死なない」だと?!
うるせーーーーーー、悪いのはその口か!!!!!!
そこ座れコラ!!!!!!
心配かけやがって…。
ホント、生きててよかったよ…。
コメント